仮説実験授業は学校制度の枠を必然的にはみ出してゆく
塚本浩司


■『ころぶす通信★合本』との出会い

 宮地祐司さんの『ころぶす通信★合本』というガリ本がある。これは,宮地祐司さんが名古屋の進学校で非常勤講師をしていた時代の,高校での仮説実験授業の記録なのだが,いまからおよそ6年ほど前,これを購入して一読したときに,ボクは大きなショックを受けてしまった。

 「高校生が小学生みたいに討論している!!」
 高校生が授業にのって,積極的に参加しているのである。その本の「あとがき」にはこんなことが書かれている。

最近では,高校で仮説実験授業をやる人も少しずつ増え,記録も活発に出されるようになってきています。それによると,高校では,

  • 討論が起こることはほとんど望めない。期待しないほうがよい。
  • 理由もほとんど言ってくれない場合が多い。
  • 予想に手をあげることもしてくれないことも多い。
  • 内職してたり,おしゃべりでウルサかったり,ツマランそーな顔をしてたり,机にうつぶせてたりする人々も多い。
というように,〈フツーの教師なら,「もう,やーめた!!」と思う現象が起こることが多いこと〉が明らかになっています。しかし,それと同時に,その授業を受けた生徒さんに,おそるおそる授業の感想を書いてもらうと,

  • とても楽しい。おもしろい。
  • 教科書よりずっといい。
  • 興味がわいた。
  • 全ての教科が,こんなふーだったらいいのに。
  • また。やりたい。やってほしい。
  • 内職してても,かしこくなれる。
  • 「ねむたい!!」と机にうつぶせていても,思わず聞いてしまった。
というよーな感想がたくさん現れてくることも,また,明らかになっています。
(略)
教師からの見た目(現象)と,生徒の感想(本質)とは,全く食い違うわけです。「〈これが,高校での仮説実験授業についての法則である〉と言ってよいかどーか」は今後の授業結果をみてみないと何ともいえませんが,「ほぼこういう傾向がある」ことは間違いないとボクはみています。現在の日本の小・中学校9年間,そして高校で,楽しくない授業を受けつづけスポイルされた思春期の人々の一般的な反応なのでしょう。

(宮地祐司「『ころぶす通信★合本』のあとがき」より。以下,ボールドの部分はすべてこのあとがきからの引用。)
 そう,まさにボクの勤める学校では,その法則にぴったりとあてまる状況だった。仮説実験授業をやっても討論が起こることなど奇跡に近く,〈私語の嵐〉で授業を中断せざるを得ないこともまれではなかった。しかし,そのように授業にはのっているように見えなくても,高校生の書いてくる感想文は,本当に素晴らしく,(これだけは小・中学校よりもはるかによいとボクは思っている)それに助けられて教師生活を楽しく送らせてもらっていたのだ。
 ところが,この『ころぶす通信★合本』は,この「法則」にあてはまらないように見えます。高校生なのに意見がバンバンでたり,討論もおこっちゃったりしてます。教師のボクも生徒さん以上に楽しかったです。これは特殊な例外なんでしょうか。
 そうそう,このガリ本の中の高校生は違うのである。法則通りではない。感想文もスバラシイが,とにかく目の前で高校生がのって討論しているのである。これはぼくたち〈仮説実験授業をやっている高校教師〉の多くにとっては異常な事態である。少なくともボクにとっては,「驚愕に値する」と言っても過言ではなかった。
 だから,「いったい,ボクとの違いは何なのだろうか。何でこんなスバラシイ授業が出来るのだ!!」と,ボクはひどく落ち込んでしまったのである。しかし,その理由もこの「あとがき」には書かれていた。
 ここに登場した高校生たちは,愛知県立千種高校の1年生(現在2年)です。この学校は進学校で,中学のとき,通知表でほとんどオール5に近い人々しか来ないよーな学校です。ボクは,初めは優等生というものに偏見をもっていて,

 「ユートーセーなんて,つまらん奴ばっかじゃないか」

と思ってたんですが,この『ころぶす通信』を見てもらえばわかるよーに,ユニークな人々も多いわけです。テストの点を上げるためにガリガリ勉強するタイプというより,かなり余裕をもっていろんなことをやってるタイプの人々が多いのです。つまり,学ぶ意欲をそんなに失っていない人々が多い(もっとも高校に入りたての1年生ということもある)わけで,「本当に楽しい,学ぶに値するコトをやれば,すぐにのってくる」という条件が,高校生では珍しく整っていたともいえるでしょう。〈学ぶ意欲がそんなに失われていない〉という点では,ある意味は小学校と同じような条件なわけです。

 そして,ボクは非常勤講師で,彼らとは週3時間/クラスの授業のときにしかつきあいはない存在でした。(「だからこそ,よかった」ともいえる。まあ,もっとも,ほとんど〈生活指導〉なんてこともしない学校でしたけど……)

 この学校は2学期制で定期テストも年に4回しかなく(あと実力テストが1年生は1回だけ),テストも教科担任で勝手に作れるし,教科書進度も1年間でちょうじりをあわせればよい,特に受験シフトもしいてない,といういわば「教科担任のやりたい放題」で,今の高校という学校制度の中で〈プリント授業〉をやるには理想的に近い条件だったわけです。

 〈そういう条件がそろう(というより,「小学校並にもどる」といったほうが適切でしょう)と,この「ころぶす通信」に展開されたようなことがおこるということではないか〉とボクは思っています。
(略)

 そして,これはボクという人間のいわば「名人芸」でこういう結果が出たわけではなく,誰がやっても,そういう条件のもとでは,仮説実験授業をやりさえすれば似たような結果になるでしょう。

 つまり,「たまたま偶然が重なって条件がよかったので,こんな素晴らしい授業ができただけなのだ」というのである。


 しかし,そんな条件が高校で「もどる」ことは,現実的にはかなり特殊なことなのでしょう。そんな特殊な,マネのできない記録をまとめておく意味は,はたしてあるのでしょうか。自分の仕事をまとめておくという自己満足的な意味(自己満足は,スバラシイとボクは思っていますが……)以上はないのでしょうか。



 こんなことを気にしてるのは,現在の自分自身の状況を考えているからです。今年から,ボクは私立高校に就職したわけですが,この学校では,昨年度に比べると,はるかに条件が「もどって」いないわけです。今まで5年間,非常勤講師で3つの高校へ行ってましたが,ここの学校はプリント授業をやる条件は今までと比べると最悪です。テストが年に10回近くもあったり(それもすべて共通テスト),週に1時間/クラス,2時間/クラスしかなかったり(これが一番のネックである),男子校だったり(意見が出ない高校では,特に女の子は逆に紙に感想などたくさん書いてくれる傾向はあり,それを読んで力づけられることがボクは何度もあったけど,それも期待できない),成績別クラス編成をしていてテストの点のみを気にする人々が非常に多かったり(まあ,こういうシステムの中では,人間はそうなるだろう),逆にもう学習意欲をほとんど失ってしまった人々もいたり……まあ,昨年度の条件にはほど遠い,ということは現実的には,高校の一般的な〈普通の条件〉とも言えるわけです。そんな条件でプリント授業をやると,やっぱり,昨年度と比べればボクの楽しさは1/100にも減っちゃうわけです。ボクにとってはあまりのギャップですが,しかし,受けてる生徒さんは,全く意見も出ず盛り上がらなくても,感想をとってみれば,例の「法則」どおりの評価はけっこう良いということになるわけですが……。

 なんだ。あんなスバラシイ授業をした宮地さんだって,条件が戻ればやっぱり「法則通り」なのか。ボクはこの部分を読んで,「ほっ」としたのでした。


 さて,さて,話はもとに戻ります。この『ころぶす通信★合本』のような理想条件近くに「もどった」高校での授業記録をまとめることは,やっぱり特殊な例であって,他人には意味のないことなんでしょうか。あまりにも結果をマネできない部分が多いわけです。(実を言えば,ボクでさえ,『ころぶす通信★合本』を,今,自分で読み返してみると,現実とのギャップに暗〜〜〜くなるのであった……これが,この合本をまとめるのに,時間がたってしまった大きな理由の1つでもある)

 ははは。本人も落ち込んでる。

 だがしかしです。こうも考えられます。条件さえ「もどれ」ば,高校でも,小学校並に,いや小学生とは違ってもっと「哲学的」「思想的」に深〜く,楽しんでもらえるということの1つの実験結果として残しておく意味は,あるのではないか(今まで,こういう記録は高校ではなかったんじゃないかなぁ) つまり,〈理想的な条件ではこんなふうになる〉という「法則性」をハッキリさせることで,逆に〈現実的な条件で起こること〉を的確に予想できるわけですよね。(ニュートン力学は,まさにそうなっている。空気抵抗を無視し,理想的な質点というものの運動法則をハッキリさせることによって,空気抵抗を考えなければいけない時とかは,その条件を加えてゆく)つまり,そういう理想状態を知ることは,逆に〈いろんなめんどうな条件が加わらざるを得ない学校という制度の枠内で,仮説実験授業をやるとどうなるか〉を考える重要な武器になるハズです。そして,当面その条件が変わらないならば,その条件が加わった中でやれる最大限のことを明らかにすることもできるのではないか……そう考えると,自己満足どころか,この『ころぶす通信』をまとめる重大な意味が見えてくるような気もします。(何てったって,そーなると「ニュートン力学の運動方程式的」な授業記録なわけですからねェ)

 この〈「ニュートン力学の運動方程式的」な授業記録だ〉という下りまで読み進んできて,胸の中にあったモヤモヤがすーっと晴れていくのをボクは感じたのだった。「うーむ。そうだったのか。だとすると,ボクの高校で,この授業記録のようなコトにならんのも当然だなぁ。空気抵抗があるのに,“〈空気抵抗がないときの運動方程式〉どおりにならん”と悩んでいたんだなぁ……。そんなことに悩んでもしかたがなかったんだなぁ」と思ったのである。空気抵抗そのものは,ぼくらの力ではどうにもならないわけである。空気抵抗とは,学歴主義や,こまごまとした生徒指導や,〈小・中学校で勉強を押しつけられてきて,学ぶ意欲を失ってしまっている生徒たち〉だったりするわけで,そういう空気抵抗は,現時点のぼくらにはどうにもできない。まさに空気のごとく存在しているのである。 (「高校は義務教育ではなく,来なくてもいいのだから,やる気のない生徒は来なければいい。だから空気抵抗などは存在しないのだ」という人もいるようだが,それは現実を見すえない観念論者の戯言である)

 逆にいえば,制度そのもの,社会状況そのものが変わってしまい,本当に学ぶ意欲がある人のみが高校に入ってくるようになったり,または小・中学校の授業が全面的に楽しくなって,高校生が学ぶ意欲を持ちつづけたままでいるようになったりすれば,空気抵抗は消滅してしまうので,ほとんどの高校で『ころぶす通信』のような授業が実現されてしまうようになるのである。

 だからといって「高校で仮説実験授業や〈授業を楽しくする努力〉をすることが無意味だ」と言っているのでは,もちろんない。他の授業に比べれば,圧倒的に高校生たちは仮説実験授業や,ものづくりなどを楽しんでくれるのは間違いない。空気抵抗に邪魔されてはいるけれど,そこらの授業よりははるかにマシなのは明らかなのである。であるから,空気抵抗のある中で,より楽しい授業を実現するべく努力するのが我々の勤めなのである。しかし,空気抵抗のない状態に基づいた予想と違うからといって落ち込んでも仕方ないのだ。

■「ころぶす学会」

 宮地さんの「あとがき」に感動してしまったボクは,即座にファンレターを送った。すぐには返事が来なかったのだが,数ヶ月後,もっとすごいものが宮地さんから送られてきた。それは『ころぶす学会★瓦版 合本1』という分厚いガリ本であった。なんと,あのすごい授業記録を生み出した高校生たちをあつめて,学校の外で仮説実験授業をやって楽しんでいるのである。

 今の学校が楽しくないから,学校の外で楽しい授業をやる。前の学校の生徒たちが仮説実験授業を受けられなくなってしまったので,彼らの要望に答える形で仮説実験授業を学校の外でやる。それは,いま各地で行われている「わくわく科学教室」といったもののはしりであったともいえる。

 しかし,ボクはそれ以上の意味をこの「ころぶす学会」に感じ取った。そのヒントもやはり宮地さんの例のあとがきに書いてある。
 ボクは,〈たとえ学校がつぶれてなくなっても,その辺の街角ででも人を集めて楽しく仮説実験授業をやるだろう〉という気持ちをもっています。仮説実験授業は,「授業」ですが,たかが100年ぐらいしかない学校制度の歴史よりもずっと古い伝統をうけついでいるのです。だから,たとえ学校制度がつぶれてしまっても,仮説実験授業は本質的にはちっとも困らないのですよね。そんなことを頭のかたすみにおいて,この学校制度の中でボクは仮説実験授業にかかわりつづけていきたいもんだと新たに思っております。
 また,『ころぶす学会★瓦版 合本2』のまえがきには,
 いまの学校は,成績・出席・単位・生活指導etc.などがキチンとして,いわば制度化しきっています。「授業の内容」より「単位が取れるか,卒業できるか」が重要だったりするわけです。ころぶす学会は,「内容がおもしろい」こと以外何の強制力はありません。つまり,〈ころぶす学会とは「アマチュア精神」にもとづいている学会である〉といえるでしょう。「これからどんどんこういう組織が増えてくる時代がくるに違いない」……これがボクの予想です。
とある。

 「学校で仮説実験授業ができなくなった,うけられなくなったから,学校の外で仮説実験授業をやる」といった消極的な目的ではなく,「現在の学校における様々な制約を取り払ってしまったほうが,仮説実験授業がより楽しめるに違いない,そうしてこそ,仮説実験授業の真価が発揮されるのではないか」という認識にもとづいて,歴史上初めて実践したのが,ころぶす学会の活動だったのだ。その点についての認識は,いわゆる「わくわく科学教室」などとは大きく異なっているとボクは思う。

 仮説実験授業は,いまの学校制度の枠におさまりきれるような陳腐なものではない。それを実証してみせたのが宮地さんの「ころぶす学会」だったと言っても過言ではないであろう。


 ボクは,『ころぶす学会★瓦版 合本1』を読んで,完全にこの「ころぶす学会」にはまってしまった。どうしても自分のところでもマネをしてみたくなって,当日止めていた学校の生徒たちと同じような組織「みけねこ学会」を作ってしまった。

 その後,「みけねこ学会」は解散し,〈教師以外のヒトビトで科学を楽しむためのサークル〉として「大道楽科学研究会」を主宰し,それも解散して,僕の授業を受けた渡辺章君らと,フリーマーケットで大道仮説実験授業をやるべく準備をしている現在にいたるのであるが,一貫して学校という枠にとらわれずに〈仮説実験授業とそれにまつわる研究・実践〉を展開してきた。

 “高校教師”というのは,ボクの一面でしかない。「高校教師としての生活を楽しくする」ということも大切だと思うし,〈学校での授業を楽しくする努力〉も怠っていないつもりだが,それよりも,「人間として楽しく生きることのほうが優先だ」と思っている。

 それには,教師という党派性をとっぱらってしまった上で,「〈仮説実験授業とその周辺の思想〉を学び,研究・実践する」ほうがより本質的に楽しめると思っているのだ。

■「サイエンス・シアター」という構想


 いまの高校教育の現状は,学校にもよるが,かなり困難な状況である。それでも仮説実験授業をやれば,かなりいい線をいく。「この授業だけが楽しみです」と言ってくれる生徒も出現する。しかし,高校教育の制度そのものが本質的に変わらなければ,一部の学校を除いては,その楽しさは「ころぶす学会」や「みけねこ学会」には遠く及ばない。たとえば,みけねこ学会と学校の両方で,仮説実験授業を受けた渡辺章君も,「高校の授業で仮説実験授業を受けただけでは,〈単なる変わった授業〉,〈ラクができる授業〉くらいにしか感じていなかった」と証言している。 (彼は超能力の研究に興味を持ってボクに近づいてきたので,ボクが「みけねこ学会」などに誘って,それから仮説実験授業にはまってしまった生徒である。高校での仮説実験授業だけだったら,彼もそんなにはまることはなかっただろう)

 このように書くと,ボクが現実から逃げているように感じる方もいるかもしれない。しかし以下の板倉聖宣さんの文章を読んでほしい。
 私はこのごろひしひしと感じている。人間は公害によって肉体的にほろびるよりも先に教育によって精神的にほろびてしまうのではないか,というのである。「社会の進歩に落伍しないように」というかけ声のもとで,子供たちは今どんなに沢山の知識をつめこまれていることだろう。沢山の知識を身に付けること,それ自体に悪いことはないと思われるかも知れない。しかし,その代償として子供たちは人間として生きる力を失ってしまっていっているのではないかというのである。
 自分が何をしたいのか分からない人間,それはもはや人間ではない。それはロボットにすぎない。人間的に生きるとは,何よりも自分自身の欲望にしたがって生きることだ。他人の命令にしたがって生きることではない。自分自身が何をしたらよいのか分からなくしたのは教育そのものの成果である。
 人間の欲望というものは,食欲とか性欲とか,征服欲などという刹那的な低次なものにすぎないという考え方もこれまでの「教育」の生み出した成果といえるだろう。人間が自分で本当に知りたいと思うことを知らせるようなものとして教育を組織しなおすこと,これが緊急の課題としてあると思うのだが,どうだろうか。
 公害をなくす(進行させない)ためには全工業生産をストップするより他はないという議論がある。そしてそんなことは原理的にできっこないという議論がある。しかし,教育害をなくすためにすべての学校を閉鎖するより他はないという議論がないのはおかしいと思う。すべての学校を閉鎖し,家庭教育と有志の塾の教育だけを残すというのは,現実的にも可能なことであると思うのだが,……。そうでもしないと人間が人間でなくなってしまうと思うのだが,……。
 それまでは,自分の子どもを現教育の優等生にしない,することを拒否する運動をすすめることが大切なのではないだろうか。そうやって自分の子どもを少しでも守る必要があると思うのだ。
(板倉聖宣「座談会[現代と科学と教育と]参加後記」『婦人教師』明治図書No.63 1972年7月号・『科学と思想と教育』キリン館1988に再録)
 最近の板倉さんの書くものには見られない激しい文章だが,それだけに板倉さんの教育にかける熱い思いがストレートに伝わってくる。

 「すべての学校を閉鎖する」ということは,今のところ,まだ実現しそうな気配はない。しかし,いずれは現在の制度または社会状況は変質していき,結果的には教育制度の再編成が起こるにちがいない。それまでは,学校内にあっては,地道に努力を積み重ねていき,学校外にあっては,〈現在の学校に見られる制約〉がない条件での実践を先駆的に試していけばいいと思うのである。

 板倉さんは今年度いっぱいで国立教育研究所を定年退職することになっているが,それを前にして板倉さんは最近,「ボクは“国立教育研究所”に勤めていることによって,無意識に気を使っていることがたくさんあった。これからはそういうことがなくなるので,新しいことがたくさんできるだろう。」という趣旨の話をよくされている。その「新しいこと」の一つが,目下準備が着々とすすめられている“サイエンス・シアター” (教師以外の一般市民を対象として,会費を高めに設定した科学入門講座)だろう。ついに板倉さん自らが仮説実験授業を学校の枠の外に持ち出そうとしているのである。

 板倉さんが動くことで,これからは学校外での仮説実験授業の実践がより活発化していくだろう。仮説実験授業研究会の新しいステージがはじまろうとしているのだ。ぼくたちはもう,それを先駆的に体験してきた。そのことを誇りに思うとともに,新しい時代の始まりの予感にわくわくしている。

1994.9.11.
1994.10.7./1996.5.31.若干修正
あとがき
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