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楽しくなかったら,やらない


たのしいことは 人に伝えずにいられない


仮説実験授業は学校制度の枠を必然的にはみ出してゆく


仮説実験授業 エンターテイメント化計画
〈楽知ん〉と私

「科学」の語源と「楽知ん」
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楽知ん研究所〜楽しい科学の伝統にたちかえろう
楽しくなかったら,やらない
長崎 平和
「他人によく見られたいため」というのは,これは主体的ではないんですよ。「他体的」というのです。つまり,他の人間の目に映りがいいようにするわけでしょ。
 自分が満足いくようにすることが主体的です。そういうふうに「主体的」という言葉でさえ汚れてしまった。「創造」という言葉も「探求」という言葉も,みな汚れてしまった。だから原点に戻って,自分にとっての主体性とか,自分にとっての探求とかいったものが何であるのか,そういうものを考えてみる。その原点はなにかといったら,それは「自分にとって楽しい」ということです。楽しいから主体的にならざるを得ない。楽しくなかったらやらない。
(板倉聖宣「科学教育の現状と課題」『たのしい科学の伝統にたちかえれ』キリン館1989年12月21日初版発行,23ペ)

 これは,板倉聖宣という人の言葉である。ぼくはこの言葉が,両手をいっぱいに広げても足りないぐらいに好きである。「たのしい」こと,それが生きている最大の動機であり,エネルギーなのだ。ここではそうは言ってないのかもしれないけど,そう言っているに決まっているのだ。若者はいつだって身勝手なのである。
 人生は短いのだ。あっというまなのだ。やりたくないことやってるやってる暇はないのである。そんな暇があったら,たのしいことをたっくさんやりたい。そういう意味でも,この言葉は圧倒的に,正しい。
 で,「楽知ん」である。「楽知ん」は,その漢字から察しがつくかもしれないけれど,「たのしい知」という言葉の愛称である。ここで強調しておきたいのは,しつこいようだが,「たのしい」という言葉だ。印刷上の制限があるので,しかたがないと男らしくあきらめるけど,ほんとなら,ここでこの「たのしい」という文字を,スポーツ新聞の見出しのようにいやらしいほどに彩って記しておきたいぐらいである。
 板倉聖宣という人は,「仮説実験授業」という科学の授業システムを発明した人である。そもそも「楽知ん」というものは,この仮説実験授業から広がっていったものなのだ。
 仮説実験授業はたのしい。授業をやるのも楽しいし,受けるのも楽しい。学校で科学に落ちこぼれて,
FUCK科学!!
なあああんて毒づいていたぼくでも,仮説実験授業で見せつけられる科学は完膚なきまでに楽しかった。
この楽しさはなんだ!!
ってな具合で,ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」を初めて聴いた時と同じぐらいの衝撃を受けたものだった。言っておくが,ぼくは「「プリーズ・プリーズ・ミー」の二番の歌詞で,ジョン・レノンが笑ってるところがあるけど,あれは歌詞を間違えたことに対する照れ笑いなんだよ」なんて話をしてるだけで幸せを感じてしまう類の人間である。そんなぼくが「ビートルズを初めて聴いた時と同じぐらいの衝撃」なんて言ってるのだから,これはとっても大変なことなのだ。

 なぜ,仮説実験授業で見せられる科学はたのしいのだろう。板倉さんによると,それは,「科学はもともと〈知的なたのしみごと〉として生まれたもので ,仮説実験授業はその〈たのしい科学の伝統〉を引き継いでいるから」なんだそうだ。
 世の中に「たのしみごと」はいっぱいある。たとえば,映画を観たり,映画のことについて人と語り合ったり,音楽を聴いたり,演奏したり,また,音楽のことについて何か思ったことを書いたり,そういうことが書かれたものを読んだり。その楽しさは,世間に充分に認知されている〈楽しさ〉である。だがしかし,「楽知ん」の〈楽しさ〉はどうなんだろう。
 僕はこれまでずーっと,というか,今でもそうなんだけど,「楽知ん」のことを,事情を知らない他人に説明するのが面倒くさくてしょうがなかった。たとえば,楽知ん研究所主催のイベント(研究会)に行くときに,
何しにいくんだい?
と聞かれても,
え,あ,う,んー……
と,いつも言葉に窮してしまっていたのである。「知的なたのしみごとを味わいに行くのさ」なんて謎めいた言葉を残して去るのも,なんかミステリーだし,「仮説実験授業というものがあってだね……」と,そういうところから説明し始めるのも,それでは話が長くなって,相手は把握しづらくなる。そもそも,仮説実験授業自体説明するのも面倒くさそうで,「授業を受けてもらった方が手っ取り早いよ」なんてことも思うのだけれど,そういうわけにもいかないし。「授業受けてよ」なんて言えば相手が引くことは,目に見えているし,だいたいどこで授業しようというのだ。そこは学校ではないのだ。つまり,そういうことなのである。結局は何も説明しないですますことになる。はなから仮説実験授業を知っている人としか,そういう話題のことはしゃべらないようになる。仮説実験授業を知らない人には,なるべくそういう話題はふらないようにする。そうなると,なんだか自分がカルト集団に関係している人なんじゃないかという気がしてきて,肩身がせまくなってきたりもする。「どこ行くの?」という質問には「いやあ,ちょっとね……うぷぷ(*^。^*)」とかなんとか言って,お茶を濁すことになる。 これが音楽とか映画とかだったら,話はスムーズなのだ。
ライブに行くんだ!
 こういう会話はすんなりと成立する。ここで,
ライブってなんだ〜??
なんてもんどりうつ奴はいないと思う。ところが「楽知ん」はそうはいかない。もんどりうちゃーしないだろうが,少なくとも,
楽知んてなんだあ?
とは思うだろう。だいたい,「楽知ん」という名前自体,あやしげな感がなくもない。

 学校教師はその点ちょっとだけラクである。
研究しているのです
って言えば一般の人々は「ああそう」っていちおう,勝手に理解してくれるのだ。まあ,これも仕方のないことなのだろう,きっと。仮説実験授業はそこに「授業」という名を冠しているうように,それは学校の先生とそこへ通う生徒さんたちのものなのだ。学校を卒業した人たち,学校教育に従事していない人たちには,関係のないモノとも言える。そして,「授業」と名のつくかぎり,学校を卒業した人,学校関係の仕事に従事していない人にとっては,それは多くの場合,とても「たのしみごと」とは結び付いてはこない。学校の授業でやらされたことに,なんで卒業してまで関わっていなくちゃならないのさ。そんなふうに思う人が,今の日本では大多数だろう。

 「知」は,明治以降,学校という枠の中で享受されてきたといっても,イメージ的には大きくは外していないと思う。そして,なぜだか学校では「知」は半ば押しつけ的に伝授される。そして,他から押しつけられたものは「たのしみごと」としては成立しにくい。
こんなこともわかんないのか
などと先生に言われ続けて,どうして「知の楽しさ」を享受できるというのだ。「知」とか,「科学」とか,「研究」とかいう言葉は,学校教育とけっこう密接に関わっていて,そめられてしまった言葉なのだ。だからこそ,仮説実験授業や,そこから広がるたのしい知的世界を知らない人々は,「知」がもともと「趣味」や「たのしみごと」だったなんてことを信じられないのかもしれない。

 だがしかし。仮説実験授業を通してあじわった,あの科学の楽しさを,学校の中だけのものにしてしまうのはどうなんだろう。なんかもったいないぞという気がしてくる。なんだか悔しい気持ちも芽生えちゃったりする。だからこそ「たのしい知」という言葉なのである。あの楽しさを「授業」なんて狭い言葉で表すなんて片腹痛いのだ。あの時の楽しさは,ビートルズを聴いている時の楽しさに負けてなんかいなかった。言っておくが,ぼくはまだ酔っちゃいない。あの時の楽しさは,世間の人がふつう「たのしみごと」として享受している音楽や映画や,その他エンターテイメントが持つ楽しさに全然ひけをとっていなかったのだ。ぼくにとっては,怠惰なおのれを主体的に突き動かしてしまうという意味で,「楽知ん」はロックなのだ。 

  仮説実験授業をやってるとき,実験結果がわかった瞬間の空気がぼくは好きである。自分の予想が当たった人の顔や,予想をはずした人の顔を見ていると,ビートルズを初めて聴いた時のぼくの顔もこんな顔だったのかな,なんて微笑ましい気がしてくる。
(4,Nov1997.)

Thank You
Thanks to
 堀江香織さん,原稿のチェックをしてくれて,あげくいろいろとアドヴァ イスもしてくれて,ほんとにどうもありがとうございました。
 宮地祐司さん,原稿,待っていただき,どうもありがとうございました。
 松野修さん,この原稿の最初のやつをほめていただき,どうもありがとうございました。
 小出雅之さん,バイナリーメールの出し方を懇切丁寧にお教えくださり,どうもありがとうございました。
 なお,ぼくは松村雄策さんの文章が大好きなのだけど,この文章は松村さんの文体にかなり影響を受けています。ところどころ,まんま言葉を引用したところもあるぐらいです。もちろん,本家の文章とは比べ物にならないほど拙いけれど。ご勘弁ください。